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法話の泉 紅梅亭

紅梅亭へようこそ

 紅梅亭はお茶などを飲みながら仏教にふれていただくスぺースです。
    実際にはお茶が出ませんので、ご自分で準備してください。

喫茶去(きっさこ)

無寒暑の処

今年の気候は暑さと涼しさが交互にやってきて、「今年の夏はどうだった?」と聞かれると「あれ、どっちだったかな」と考えてしまいますが、季節は確実に進んでもう秋の風情です。しかし、先日所用で福岡に行ってまいりました。なんと、連日34〜5℃もありまだ夏本番といった感じでした。こちらが少々涼しくなっていったものですから暑さを余計感じてしまったようです。

中国に洞山大師(とうざんだいし)という有名な禅僧がおりました。ある時若い僧が大師を訪ね、「寒暑が到来した時はどうすべきでしょうか」と問いました。大師は「無寒暑の処へ行けばよいではないか」と答えられました。若い僧はさらに「無寒暑の所とはどういう処なのですか」と尋ねると、大師は「寒い時は寒さに徹し、暑いときは暑さに徹することだ」と答えられました。暑さ寒さを逃れたところ(他所)に安楽(仏)があるのではなく、その中(自己)にこそあるのだということです。

これは悟りや仏のことを云っていますが、そのまま暑さ寒さのこととしても通じます。私は朝本堂で坐禅をいたしますが、坐っている時「暑いな」と思ってしまいますと、突然汗が出てくるのです。それまで意識せず坐っているときは何ともないのですが、意識しただけで汗が出てくるのです。つまり、暑いときはその暑さの中に没頭し、「夏だから仕方ない」と涼しさを求めていかない。寒いときも「冬だから」と温かさを求め、不平を言わないこと。これが暑さ寒さを逃れる方法でしょうか。

道元禅師はこの洞山大師の無寒暑の話について「この寒暑は渾寒渾暑(こんかんこんじょ)である」といい、このいのちの場のほかにどこに私が在り得ようか、ここに徹する以外私たちには避けようがないとおっしゃっています。また、私たちのよく知る良寛さんは文政11年の越後地方を襲った大地震の折、親しく交際していた山田杜皐にあてた手紙の中で、「災難に逢ふ時節には、災難に逢がよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」と書き送っていることはよく知られています。道元禅師と良寛さんの言葉は同じことを言っています。「よく候。」は善悪のことではなく、「それ以外にはない」ということでしょう。

誤解のないように申し添えるならば、この度の大震災に遇われ苦しんでおられる方々には、社会が可能な限り手を差し伸べるのは言うまでもありません。 

今こそ禅の生き方

東日本大震災より間もなく5ヵ月を迎えようとしています。私の町も津波によって大きく被災をしました。死者は256名(7月30日)、罹災世帯は11,442世帯中5,325世帯にもなり、およそ半分の世帯が被害を受けました。被害総額は約3,353億円、出た瓦礫の量は127万トンで、町の年間発生量の100年分にもなるのだそうです。どの数字を見ても「ただ事ではない」ことがわかります。それだけ人間の想像をはるかに超えた自然の猛威だったのです。

それだけではありません。皆さんは、この度の地震で地球の回転速度が100万分の1.6秒速くなったのをご存じでしょうか。武蔵野学院大学の島村英紀教授によりますと、「これは巨大で重いプレート(地球の表面を覆っている厚さ100キロメートルほどの岩の板)が地震の時に突然動き、それゆえ地球の質量の分布が変化したためだ。同時に、地球の回転軸も約15センチメートルずれた」のだそうです。東日本大震災は地球のバランスを崩してしまう程大きなことっだたのかと改めて驚かされます。

お釈迦さまは「無常」を説いています。この意味は「同じ状態は長く続かない。絶えず変化をしていくのがこの世の中だ」といえましょう。仮に今が最悪の状態だとすれば、良いほうへ変化していくしかありません。その言葉の通り当町では、避難所が無くなり、被災者は仮設住宅やアパートなどへと転居が終わり、新たな生活が始まっています。この後は学校や公共の施設が再建されたり、農・水産業等の産業が復興されたりなど良い方向へと変化していくことでしょう。

環境が整っても心が伴わなければ仕方ありません。「無常」ですから心も変化するのは当然ですが、何かに執着してしまうといつまでもそこから抜け出せなくなり、時も心も3月11日で止まったままになってしまいます。「自然のすることだから、地球の自転速度まで変えてしまうほどのことだから仕方ないんだ」心で受け入れなければ前へは進めません。開祖道元禅師は、「気まぐれな私の思いを限りなく放下して、生かされている生命(いのち)の真実の姿に順(したが)って毎日を生きよ」と諭されています。具体的にいえば、朝起きて用を足す。その他仕方も前後を汚さないよう心を配り、手や顔を洗ったらタオルのしわをきちんと伸ばしておき、後の人が使いやすいようにしておく。食事、掃除、仕事と生きる営みのすべてをやりたいようにではなく、あるべきようにと心をして勤め上げる。なんでもないことのようだが、これが「禅の生き方」と呼ぶものであり、前を向いて生きる生き方といえるのではないでしょうか。

佗は是吾に非ず

みなさまはじめまして。数あるホームページの中で、よくこのページをお選びいただきました。偶然にしろ、何にしろ、誠にありがたいことです。

東日本大震災より4ヵ月とちょっとが過ぎました。一時、何10万という人たちが避難所暮らしを強いられましたが、今は仮設住宅やアパートなどへ移り、次第に落ち着きを取り戻しています。被災者が仮設住宅に移り始めた4月29日に、民生児童委員でもある私は、他の仲間ととも「レッツゴー.わたり」をたちあげて、当山の駐車場を会場に被災された方々に、仮設住宅などで使うであろう日常のこまごまとした物資を配布するという活動を始めました。

火曜日と木曜日は休みにして、残りの週5日間の開催です。配布を受ける人の数は多く、平均すると170~80人位の人はいたのではないでしょうか。というのも、「レッツゴー」のコンセプトに「新しいものをさし上げたい」という思いがありましたので、揃えてあるものはそのほとんどが新品だったこともあり、評判は良かったと思います。また、今年は毎日がお天気が良く、晴れの日が多くて雨で困ったという日は梅雨の間のほんの数日間だけでした。私の係りは倉庫の管理と、物資の運搬です。運ぶ箱は大きいもの、重い物が多く、小さくて軽いものは少なく、あったとしてもそういうものは一度にたくさん運ぶので、結局重くなってしまいます。汗が地面に滴り吸い込まれていくのを見たとき、道元禅師が中国天童山で修業中に老典座(てんぞ)に教わった言葉、「佗は是吾に非ず」を思い出しました。

天童山の老典座が太陽のカンカン照りつける真昼間、弓のように曲がった腰を杖で支えながら、汗を滴らせて茸を干している姿を道元禅師が見たとき、「どうして下の者や使用人にやらせないのですか」と声をかけられました。その問いかけの答えが「佗は是吾に非ず」の一言だったのです。人がやったのでは私の修行にならないではないか。私の修行は私が骨を折り、私が額に汗しながらやらなければ私の修行にならない。道元禅師は重ねて、「見ればお歳のご様子、なにもこの暑いなかなさらなくとも、涼しくなってからやればよろしいのでは」と続けられ、老典座の一言は「更に何れの時をか待たん」今をおいて他にやる時などない。何とも心地よい老典座の一言です。

その後、レッツゴーわたりは希望者が全員仮設住宅に入居されましたので、本年7月10日をもって終了いたしました。私はなんとその晩に急に熱を出し、倒れこんでしまいました。原因は夏風邪で私は生れてはじめて夏に風邪を引いたのでした。気温は高いし自分の熱はあるし、これが夏の風は長引くといわれる原因かと思いました。いずれにしろ誰も変わってはくれませんし、私が私の風邪を風邪していくしかありません。「佗は是吾に非ず」であります。

宗教法人高音寺


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