歴史
◆曹洞宗の歴史
道元禅師は24歳のとき、中国へ入宋留学を決意し、二月に師の明全とともに京都の建仁寺を発ち、博多の津から出航して、四月には寧波(にんぽう)に着いた。中国の諸山を遍歴し26歳の春、天童山景徳寺の住職、如浄禅師(にょじょうぜんじ)にめぐり合い、厳しい修行の末禅師より釈尊以来の正伝の仏法を相続することができました。帰国した道元禅師は、直ちに坐禅の仕方などを説いた「普歓坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」を撰述しました。当時は、比叡山を中心とした旧仏教側の圧迫もあり、正伝を宣揚するためには真の求道者を養成することが急務であると考えられ、宇治の興聖寺(こうしょうじ)、更には越前の永平寺(えいへいじ)を通じて、一人でもいい、半人でもいい(一個半個)との願いを込めて、人材の養成に専念されました。
この道元禅師の精神は、その後を継いだ永平寺二代目の孤雲懐浄(こうんえじょう)禅師、三代目で加賀の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつうぎかい)禅師を経て、その弟子瑩山禅師(けいざんぜんじ)に受け継がれました。そして瑩山禅師のもとには、後に永光寺(ようこうじ)を継いだ明峰祖徹(めいほうそてつ)禅師、總持寺(そうじじ)を峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅(そうとうぜん)が広まって行きました。特に中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依(きえ)を受け、専ら地方へと教線を伸ばして行きました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヵ寺を定めて順位を付けた五山十刹(ごさんじゅっせつ)の制を敷き、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきを避け、地方の民衆の中に溶け込んで、民衆の素朴な悩みに答え、地道な布教活動を続けていきました。しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学(しゅうがく)の研究を志す月舟宗湖(げっしゅうそうこ)、卍山道白(まんざんどうはく)、面山瑞方(面山瑞方)などの優れた人材が出て、嗣法(しほう)の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法(めんじゅしほう)の精神に帰るべきことを主張した宗統復古(しゅうとうふっこ)の運動や、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」をはじめとする宗典(しゅうてん)の研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。しかし、仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士(おおうちせいらんこじ)が出て「修証義(しゅしょうぎ)」の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙(あぜがみばいせん)禅師、永平寺の滝谷琢宗(たきやたくしゅう)禅師の校訂を経て宗門布教の標準として公布され、在家化導の上に大きな役割を果たしました。
こうして曹洞宗は、今日日本全国に約一万五千の寺院と、約八百万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来に向けて更に前進しようとしています。(sotozen-net)